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2018年4月14日土曜日

先達の磯釣その2


惣之助は、「釣」、の巻頭の序言でこう書いている。
<<然し、釣りを諄諄説くもの、あながち釣りの名手ではない。名人はいつも沈黙しているものである。われわれはただいつもその人の間近に窺い寄って、かくもあらんかと、秘密の一切を報告するにとどまる。釣って釣って、初めて釣りというものが解った時には、もう説きたくないもので、私の釣友には、生涯アユを釣り、タイを釣っている名手がいるが、遂ぞこの人は説かない。>>

これを読み、うーむ、そうだな。残学菲才でありながらワタクシのように中途半端に説くものには、何によらず信用してはいけない。本当は師匠や先輩との間で直接の相伝というか謦咳に接し真似て盗むものである。熟成されるでも良い。。ワタクシはそうしてきた。これまで、釣技やポイントなど釣りの生情報は書かないようにつとめてきた。そういうものはいくらでもあふれているからである。しかし、これほどの情報化社会となりあらゆることが進歩、進化してきた。だがまた、知りたいのだけれど、もう一歩のところで得られない情報というものもたくさんある。

惣之助はブダイに凝ってかなり釣り歩いたそうだ。房総、相模、伊豆、紀州、八丈島、小笠原。延べ竿の三間から四間、道糸は渋染めの三本撚り。六か七匁錘で脈。浮なら三か四匁。匁と現在のオモリの号は基本的に同じはずである。釣り用錘の歴史である。ハリスは1分柄テグス一本。人によっては5厘テグス3本撚りか8厘テグス2本撚り。強度は別にして、太さは1分柄テグスは現在の10号、5厘柄は5号としてよいであろう。釣り用糸の呼称の歴史である。テグスはご存知ない人のために、野生の蛾から取れる透明な糸である。カイコから絹糸が取れるのはご存知ですよね。ものすごく細い繭糸を数本撚ったものがシルク、絹糸である。野生の蛾は野蚕、天蚕ともいう。繭糸を出す以前の内臓にある長い腺を利用するらしい。だから長いものはない。なに、絹もシルクも知らない。日本の主要輸出品だった。年寄りしか知らない。仕方がないなあ。

ブダイの釣り方は長竿釣りと流し釣りと船釣り。餌はハンバとカニ、とある。惣之助は現在とほとんど変わらない釣り場にいっている。ごく近場から根府川、真鶴、錦ヶ浦。その先の川名、富戸から八幡野。さらにその先の下田から南伊豆。そして伊豆七島まで及んでいる。

ブダイで気になる文章があった。竿は三間、三本継ぎで生地のままのものを作らせてもっていくのが理想的。うーむ。こういうのを竿師に作らせていたのだね。どんなものだろう。野布袋の印籠継ぎだろうか。戦前の普通の庶民には無理かもしれない。需要が少ないはずだから出来合いはなかったと思う。現地で借りたのが一般的だったのだろうか。そういえば、子供のころからちょいと以前まで、江ノ島あたりで竹の延べの貸し竿があったのを見ている。

「石廊崎では灯台傍の茶屋で四間の延べを借り、石廊権現の下の荒磯で、、、」と書かれている。しかし、ここまで釣りに行くだけでも庶民には無理だよ。伊東からバスに乗っていくか、修善寺からバスで下田。もうひとつは船で行くというコースがあった。現在の東海汽船の船中に昭和4年のものが貼られていて見ることができる。これはとてもおもしろい。夜9時東京を出帆、朝5時大島着。そして7時に下田着。停泊して12時に下田発、3時大島、夜9時東京である。別に下田から熱海間の各港泊まりの貨客船がある。こんなところに止まったのかと驚く。時刻表を拡大すれば見ることができる。







さて、イシダイであるが、当時一般的な仕掛けは15匁の棒錘、麻糸か太い綿糸の道糸、ワイヤのハリスで物干し竿。仕掛け図の写真には人造テグス十匁又は麻糸とあるが、人造テグスは白絹糸太番手をゼラチンで固めたもの。10匁というと相当な太さだと思うが良く分からない。オモリのようにそのまま号に該当ということはないだろう。一分柄テグスが10号の太さからいうと100号かも知れない。そんなあ、太さであって強さではないから念のため。人造テグスはごわごわして、使っているうちにゼラチンが溶けてしまうということをどこかで読んだことがある。たしか人天といわれたはずだ。



惣之助は書いている。「磯の石ダヒの竿釣となると、どんな釣人も常にあこがれてゐながら、なかなかよく釣れる機会に恵まれず、又その辛抱も出来ない、その代わり、ひと度び、石ダヒがかかったとなると、大物は一貫目もあるから、道糸やハリスを切られ、竿を折り、時にずるずると引き込まれかかって、岩角で腕を挫いたという話もよく聞くほどで、これ以上豪快なものはないほど、磯釣の王者である。」

ウーム。。道具が未開発だったというだけではなく、昔もあまり釣れなかったようだ。辛抱もできないと書いている。昔は釣れたとよく言われるが信用できないね。今時の若い者はだらしがないとギリシャ時代から言われているのだ。

磯釣のリール釣はなかったのかというと、あるにはあった。しかし、普通は国産のタイコリールでアメリカの輸入リールはごくごく少数だろう。

惣之助の本にリールの投げ方の図がある。見ると、磯釣ではなく、投げ釣りのようだ。タイコは片軸であり強い引きに対応できない。戦後、真鶴でやったという先輩から聞いた話では、タイコリールで拝み釣というスタイルだったとか。両手で拝むようにタイコリールを挟んで引きに耐える。多分、、道糸を手で引き抜いて、余分を少しずつリールに巻き込むのかな。いや、手で引き抜くことが主体だったのではないか。



写真のリールは老舗リールメーカーのシェイクスピア1935年製である。コレクションとして、昔入手したものである。普通の現代のイシダイリールの大きさである。インテリアのオブジェにも良いではないか。このころアメリカではペンリールも市場に出てきた。



これだったら立派に使える。竿師に三本継ぎのガイド付き磯竿を作らせることも可能だ。こういうものを戦前の日本で輸入してイシダイ釣りに使っていた人がどのくらいいたのか知ることはできない。日本磯釣倶楽部の大久保鯛生か三谷、長岡あたりはこういう輸入品を使っていたかもしれない。別稿でさかなちゃんブログには日本のリールの歴史を書いている。そのうち紹介しよう。

一方でフライフィッシングでは上流階級においてかなりいただろうことは分かる。

これは古いリールの片軸。戦前のオリムピックの横転リールである。


さらに続く

2 件のコメント:

  1. 昭和4年大島下田航路には新造の菊丸780トンが投入された。有名な橘丸1772トンは昭和10年。東京湾の女王と呼ばれ、唯一病院船で生き残り、病院船偽装事件で悪名をはせ、戦後も大活躍し、大島と橘丸は合い言葉だった。高校時代に一回、橘丸サヨナラ釣り大会でも乗っている。詳しくは橘丸で検索。橘丸事件でも経緯が書かれている。現在の3代目橘丸が三宅八丈航路。

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  2. 橘丸就航のころ、大島本村(現在の元町)も下田も、船が大きいので多分水深の関係で、接岸できない。そのため沖合い停泊でハシケ取りであったという。ハシケ取りは式根島で経験しているが、荒れたら無理だね。ハシケに飛び移るのがチョー難しい。

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