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2018年4月12日木曜日

先達の磯釣りその1

さかなちゃんブログに書いたシリーズのエッセイをごく少し加筆して潮風会ブログに転載する。その1からその8くらいまで続く。追加でもっと増やすかも知れない。主に当時の書物から磯釣りの歴史を論評していく。



昭和17年9月発行の、「釣」という本。創元叢書、著者佐藤惣之助、定価1円80銭。数年前ヤフーオークションで入手。詩人であり作詞家。代表作は東海林太郎の赤城の子守唄、阪神タイガースの六甲おろし、人生の並木道、湖畔の宿。もっとあるけれど、省略。現代では、ちょうど亡くなった阿久悠のような存在であったのだろう。



1941年、昭和16年12月8日真珠湾攻撃。国家総動員体制で戦争に突入している時代である。鬼畜米英と叫んでいた時代。よくこんな時に。いや立派だ。非国民と言われたかも知れないが、人を殺すよりも平和な釣だ。

釣りの著作が多いことで知られている。でも年代的にワタクシより以後の世代の人であると、よほどの釣り文献マニアでないと知らないかも知れない。磯釣の大先達の一人として知っておりました。




実は、この本の完成を見ないで惣之助は脳溢血で亡くなった。1942年、昭和17年、5月15日である。惣之助の絶版となった。惣之助は日本の磯釣クラブのパイオニアである日本磯釣倶楽部の常務理事であった。同じ常務理事であった大久保鯛生が房総の試釣会があった日に房総線の車中で新聞を見て知った、と巻末の跋に寄せている。しかし、昭和17年はすでに戦争に突入している。このような本の出版が許されなくなる寸前であろう。

日本磯釣倶楽部は最近はどうなっているのか知らない。少し前までホームページもあって驚いたが消えた。消滅状態と思われる。消息が知りたい。また、そうとう昔だが、竹芝桟橋で背中に日本磯釣倶楽部の文字とSINCE1939とプリントされたヤッケだったかベストの人たち数人を拝見したことがあった。当時、全磯連から別れた日本磯釣連合の中にあって健在ということは知っていた。ただただ恐れ入りましたと敬意を表す他になかった。とにかく磯釣倶楽部の源流の源流である。

惣之助はプロの文筆家であるから、流石に文章は遅滞がない。磯釣だけでなく釣り全般に及んでいるのだが、逆に当時は磯釣までを守備範囲にする釣り人はごく少なかったはずなので貴重な文献である。房総、伊豆、伊豆七島まで釣りに行けた人がどれほどいただろうか。

また、品川沖の道了杭の釣りが大名釣りだと書かれている。一人か二人の仕立てで二間半の竿を並べて、魚は船頭が取ってくれるし、餌も付けてくれて、座布団に座って釣れる。費用は掛かるが旧江戸を偲ぶ良い釣りとある。京浜間の防波堤の釣りは、かなり盛んで大衆的で、盛夏となると300人も防波堤に上がるとある。

面白そうなところを紹介しようとしても、枚挙にいとまがない。読んで、磯釣の代表魚はどうもブダイだったような印象を受ける。七島のカシカメのウケ釣りが書かれている。ブダイのウキ釣りである。知っている人にはこれだけで何の説明も要らないのだが。現在では一割いらっしゃるかどうかくらいだろう。

カニブダイでは良いブダイ釣り場に出ると、足もとの岩に茶碗大に凹んだ穴がある。石でカニを叩いてコマセにした跡である。これはワタクシの磯釣り入門時に先輩から聞いて知っていた。

島では物干し竿のようなのを担ぎ、背に石油缶を背負い、一本のこうもり傘の骨と、弁当と水瓶を入れ一日岩礁を渡り歩き、祝儀用としてもブダイを釣る。こうもり傘の骨はカニを突いて採るため、石油缶は魚籠の代用もする。荒縄で背負ったのか、モッコのようなものの中に入れて背負ったのか。これを島ではヤギを担ぐといった。亭主がヤギを担ぐのに不平をいうような女房は断然評判が悪い。と書かれている。

ハンバやモクの採れる時季は長いウケを投げて釣る方法が先ほど触れたカシカメのウケ釣りである。ウケはウキである。カシカメはブダイである。これは七島の伝統釣りとして有名である。知る人は知る。長い棒のようなウケに仕掛けをたたみ込んで、道糸をザルに輪にして足元に置き、リールなどない時代に手で投げるのである。長くなるので後日いつか。これの現代版リール釣りはずいぶん長いことやっていない。やりたくなった。イシダイもメジナも書かれているが、これも後日、こうを改める。

2 件のコメント:

  1. うーむ、ブダイも奥が深いんですね!

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  2. イシダイはまだ道具が追いつかなかったと思う。次稿にあるようにミチイトは麻か綿で、つまり細いロープが主体だろうね。イメージはコマ回しのヒモ。

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